“gobbledygook” revisited
封印してたアルバムを9年ぶりに引っ張り出してきた。いや、「封印」は言い過ぎ。何度か聴いたものの、あまりピンと来なくて忘れ去られてた、というのが実情。改めて調べてみたら、リリースされたのは2001年3月のことだったらしい。ほぼ9年前。9年ぶりの再会。なにこれ。キュートで型破りで儚くて格好良い。なんだ。良いじゃん。
ファーストアルバムの印象は、やや不思議ちゃんっぽいオーラを漂わせつつも、ショートヘアがトレードマークの可愛い女の子。でも、言葉の紡ぎ方とか音の選び方とか、端々に尋常じゃない感覚と狂気を垣間見せつつも、そのあたりの才能はちょっと抑制を利かせて後ろに下げ、あくまでも聴きやすくポップにまとめるという路線。今から思えば、ファーストアルバムはデビュー作にして、一つの完成した境地に辿り着いていたのかも知れない。
第二作になると、これらの印象が片っ端から覆された。ビジュアルは金髪のカーリーヘアになって、音楽はテクノロジーで増幅され、後ろに下がっていたはずの狂気は前面に出てきていた。歌詞はますます支離滅裂になって「パンツ丸見え」とか叫んでるし。なにがやりたいんだろう? 残念ながら、当時の僕には解らなかった。解ったのは、前作とは何もかもが変わってしまった、ということだった。
9年ぶりに、忘れかけていたアルバムをもう一度聴いてみようと思ったのは、某動画サイトで目撃したライヴ映像がきっかけだった。サンプリングなどのテクノロジーで飾らない、彼女自身の生の声に心動かされた。こんな曲あったっけ? なんでこの「うた」を見落としてたんだろう? 調べてみたら、9年前に確かに手に入れていたアルバムに収録されているはずの曲だった。一部のクラスターに属する人間にとってはプログレッシヴで実験的な「音楽の革新」を暗示する言葉を冠する13分に及ぶ記録が、過去と現在に橋をかける。9年もの歳月を超える橋の名は「Fragile」。旧世界と繋がるには、あまりにも脆くて危なっかしい名だ。でも、彼女の第二作を表すのに、こんなに適切な名は他には存在しない。
第二作「gobbledygook」で川本真琴という才能が表現したかったこと。それはファーストアルバムで使っていた制限と虚飾を破壊すること。ショートヘアでコケティッシュでポップで可愛い女の子。どういうわけか課せられてしまったイメージを全否定するために、全てを逆にした。髪の色を変えたのも、テクノロジーを導入したのも、過去と決別したかったからではないか。デビュー作で提示した川本真琴像は確かに支持を得たけれども、本人にとっては、本当に表現したかったことは別にあって、それは奥に下げた才能と狂気の、さらに後ろに隠し持っているしかなかった。第二作では、一番後ろに隠す以外に選択を許されなかった、「ほんとうに表現したかったこと」を最前列に出すための方法を得たのではないかと思う。どうにかして。
実現したのは、前作で使っていたフィルターを排した、飾り気のない生の「川本真琴の音楽」。もはや猫を被る必要がなくなった、隠し立てしない狂気と才能を前面に推し出した音楽表現。余計なことを考える必要がなくなって最大限の自由を得たとすれば、何ができるんだろうか? 実現したのは、そんな音楽。実験的で、脆くて、儚くて、果てしなく自由な音楽の世界。
「gobbledygook」がファーストアルバムと決定的に違うのは、彼女が持つ才能との間に、介在する抑制があるかどうか、だと思う。ファーストでは、抑制がかかっていた。たぶん、なにかビジネス的な力学だったんじゃないかと推測する。セカンドでは、それが消えた。彼女にとって幸運なことに、その制約は消えた。彼女にとっては不幸なことに、その制約は消えた。その制約は、制約であると同時に、彼女が持つ、有り余る才能と狂気に一定の指針を与えるものでもあった。指針は、制約と共に消失した。ファーストアルバムを規定していた制約は消え、同時にコインの裏表でもあった「指針」も失われた。自由を得るのと引き換えに、自らを特徴づけていた仮想のステレオタイプを捨てることになった。
そう考えると辻褄が合う。もはや、黒髪ショートヘアの可愛いくてちょっと不思議な女の子ではいられなくなってしまったのだ。後ろに隠し持っていた才能と狂気、それらを表に出す時が来た。そう思ったからこそ、全ての抑制を投げ捨てる必要があったのだ。必要ならば、テクノロジーの手だって借りるし、誰にも理解されないかも知れない「ことば」を前面に出すことも必然となるもの。セカンドアルバムで表現したかったことは、ファーストで後ろに回すことを余儀なくされた才能たちを、一番前に推し出すことだったのだと。
惜しいと思うのは、これが志半ばになってしまったところ。 一部の曲はファーストの頃のイメージを引き継いでいるのだよね。最初に聴いた頃に、これを全否定できなかったのは、まだファーストの頃の面影が残っていたからだと思う。それがなければ、遠慮なく罵倒して、そのまま捨ててしまっていたはず。でも、そうはしなかった。それはファーストの頃のイメージがあって、当時はそれを継続してくれることを期待していて、そして一部の曲は期待に沿っていたから。9年も死蔵していたのは、残りの部分を理解できなかったから。それでも、9年もの間、捨てることもできなかったのは、そこに何かが存在するような気がしたから。その残りの部分を理解するには、9年の歳月を必要とした。
第二作にしてデビュー作よりも荒削りで原始的である理由。それは、ファーストアルバムで一つの境地に達してしまったことと、それが本来望んだものではなかったことに発する反作用なのではないかな。なぜか市民権を得てしまったファーストアルバムの印象を覆して、本来の自分を表現しようとしたら、予想に反して何故かあっさりと実現できることになった。思いがけず得た最大限の自由の中で、自分を表現しようとしたら意外と大変だった、みたいな。広すぎる自由は人を戸惑わせ、迷わせる。抑制が消失することで洗練は失われ、後ろに隠していたプリミティヴな感情、喜びや怒り、悲しみや幸せが、なんのフィルターも介さずに聴き手に届けられる音楽が残った。このアルバムに心動かされるのは、そんな隠し立てしない生の感情に直接触れることができる奇跡を目の当たりにしているからなのだと思う。でも、そんな奇跡は、脆く壊れやすい。掌で受け止める間もなく、儚くも崩れ落ちてしまうほどの「Fragile」な奇跡。
このアルバムで聴けるのは、そんな奇跡だ。9年前の僕には、これを理解することができなかった。9年もの月日を経て、他に山ほどのヒントを得て、やっと、彼女が何を表現したかったのか、少しだけ解った気がする。今まで理解できなくてごめん。やっとあなたの凄さが、少しだけ解った。今は、そんなあなたを少しだけでも理解できたのが嬉しい。そして、9年もの歳月を超えて戻ってきてくれたことが、本当に嬉しい。
エピックレコードジャパン (2002-07-01)
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こんにちは。
川本真琴さんの新アルバム、きのうは日本中でファンのみんながあちこち探して、はしごして、どこでも売り切れという状況だったみたいですね。
店舗限定での初回特典のことを知らずにAmazonで購入されてあとで知るということも。
あと、きのう川本さんがTwitterを開始されましたね。
こんにちはー。
新譜は売り切れてるところもあったみたいですね。
かなり久しぶりなだけに、昔からのファンが殺到したのかも。
Twitter の方も昨日見つけてフォローしておきました。
誕生日をそのまま ID にしてるあたりが「らしい」感じで微笑ましかったですw