「告白」を見てきた
先に原作を読んでみた。敢えて淡々と、派手にならず、余計なものをギリギリまで削ぎ落とした文体。その行間から、登場人物たちがそれぞれ、奈落へ落ちて行く様が垣間見える佳作。これを映像にできるのか?とも思ったが、要らない心配だった。映画が原作を超えていた。遥かに。
一つ目。すでに余計なものがほとんど残っていなかった原作から、さらに切り捨てられる場所を見極めたところ。言葉ではなくて映像に語らせることができるところは、登場人物の「告白」すらも取り除いてしまえる。だから、一人を除いて、原作より口数は少ない。寡黙になった分、「行間」が広くなる。語られないことについて、より多くのことを想像し、考えさせられる。
二つ目。原作では単なるエピソードの一部として登場したモノやコトたちを、重要な伏線に変えてしまったこと。たぶん、こういうことなのだ。原作にさりげなく置かれていた伏線を、映画のクライマックスで目に見える形で回収しているということなのだ。映画が、原作の意味を浮き彫りにする。だから、この映画は、原作を先に読んでから見るのが正しい。
三つ目。松たか子の瞳の奥に森口悠子の狂気を見た。原作と同様に、淡々と独白を進める語り口とは裏腹に、その目に、その口元に徐々に狂気が浮かんでくる。あれは森口悠子を演じる松たか子ではない。松たか子によく似た、森口悠子なのだ。
映画をまだ見てない方には、ぜひ劇場へ。その前に、原作を読んでいない人は書店へどうぞ。順番を間違えないようにご注意を。
